S・ヴェイユに関する覚書

☆『シモーヌ・ヴェイユ「犠牲」の思想』  

全体主義に覆われた20世紀半ばのヨーロッパに鮮烈な足跡を遺した思想家シモーヌ・ヴェイユ。政治的であり宗教的であり、かつ実践的な彼女の思想と生涯を一貫する内的動機は何か。著者はそれを「犠牲」の観念に着目して探った。
「犠牲」の観念の中心に十字架のキリストがある。ヴェイユはキリストを、弱き人々のために自らを犠牲にする「義の人」として、普遍的宗教性のあらわれの一つとしてみる。
国家の栄光など偽りの偉大さのための「犠牲」とは真逆の、最も弱いものと同苦する「犠牲」のありかた。それは人間の人間に対する義務であり、宗教の原点にあるものだ。
「義務の観念は権利の観念に優先する」とヴエイユはいう。人間の権利はその権利を守る義務を負うと考える他者があってはじめて有効性をもつからだ。義務の感情は善への渇望から生じている。
十字架のキリストのように「不幸」に磔にされた民衆と共にあること、弱き他者を生かすこと、その一点をみつめるとき政治と宗教は別のものではない。
ヴェイユは「他者を生かすため」の思想を模索し行動した、と明快にする。その生涯と遺された言葉は、他者の「犠牲」を踏み台に現世的な力を欲望するこの時代への痛烈な批判として、警鐘として、かけがえがない。
(2012年執筆)
『シモーヌ・ヴェイユ 「犠牲」の思想』 (鈴木順子著) 藤原書店

 

 

☆「義務の観念は権利の観念に優先する」(『根をもつこと』解説)      

ヴェイユの最後の論文は一九四三年、ロンドンの亡命政府のもとで、解放後のフランスの再編成計画として書きはじめられた。
「義務の観念は権利の観念に優先する」という印象的な言葉から書き出される『根をもつこと』は、「人間の義務の宣言に関するプレリュード」という副題をもち、第一部「魂の要求するもの」、第二部「根こぎ」、第三部「根をもつこと」の三部からなる。
義務とは何か。まず「人間としての人間それ自体に対する義務のみが永遠である」とする。「自分に相手を救ってやる機会がある場合、その人間を飢えの苦しみに放置しないことは、人間に対する永遠の義務の一つである」。この義務は倫理的かつ宗教的である。
第一部では、魂が要求するものとして「秩序」以下、次の項目をあげる。「自由」「服従」「責任」「平等」「階級制」「名誉」「刑罰」「言論の自由」「安全」「危険」「私有財産」「共有財産」「真実」。それらを善との関わりにおいて見ていく。さまざまな義務の感情は善への渇望から生じているのだ。
「言論の自由」の項では「知性の集団的行使なるものは存在しない」と、負の側面も的確に指摘する。「思惟の表現が(略)〈われわれ〉という短い言葉に先立たれるようになるやいなや、知性は敗北する。そして知性の輝きがかげりをみせるとき、かなり短時間のあいだに善への愛も踏み迷うことになるのである」。また「真実」への要求は魂のいかなる要求にもまして神聖であるゆえに「虚言の組織化」をおこなうとき「ジャーナリズムは犯罪を構成する」。魂を善と結びつけるには、精神の教育、知性の教育が必要であり、真実を愛する習慣をもたねばならない。
第二部のタイトルの「根こぎ」という言葉こそは、現代の人間の不幸が何かを鮮烈なイメージとともに言い当てるものだ。「人間は、過去のある種の富や未来への予感を生き生きと保持している集団の存在に、現実的に、積極的に、かつ自然なかたちで参加することを通じて根をおろす」。いまやその自然な生命的な根づきが、軍事力や金銭の支配によって破壊されている。しかも暴力は伝染する。根こぎの病は植民地にも東洋社会にも持ち込まれている。根こぎがもたらすものは死である。「征服は生命に通じない。おこなわれたまさにその瞬間から、征服は死に通じる」。
「根こぎは、人間社会のずばぬけてもっとも危険な病患である。なぜなら、根こぎは増殖してゆくからである。完全に根こぎにされた人間には、ほとんどつぎのどちらかの態度しか許されない。すなわち、古代ローマ時代の奴隷たちの大部分とおなじように、死にほとんど等しい魂の無気力状態に陥るか、さもなければ、まだ根こぎにされていない者たち、ないしは部分的にしか根こぎにされていない者たちを、しばしばこのうえなく暴力的な手段によって、根こぎにすることをめざす活動に飛び込むか、である」。
現在の世界情勢なども貫く洞察であろう。今なお世界のあらゆる場所で人々はあらゆるかたちの根こぎの暴力にさらされている。
ヴェイユは、労働者や農民がどのような「根こぎ」の状態に置かれているかを検証する。モノ以下の存在のように扱われたり、労働への愛を不可能にする数々の現実がある。組合活動からも顧みられない青少年や女性や移民の不幸は「集団活動が実際に正義を目指すことがいかに困難であるか、不幸な人間たちが実際に擁護されることがいかに困難であるか」を物語る。「人間本来の傾向は不幸な人間たちに注意を向けないところにある」という透徹した現実認識こそは、偽りの善を剥ぎ取る力である。「労働における人間の尊厳」は金銭のみに還元できない、労働が「一生のあいだ詩情に輝く」ことだ。そのために何が必要か、ヴェイユの提案は具体的である。
ヴェイユは、二十世紀半ばのフランスの突然の崩壊を、単純にドイツの侵攻などの外的事情によるものとは見ない。フランスの歴史の誤謬の必然的結果とみる。「根こぎと国民」のくだりでは歴史を遡って国家主義を検証する。現代の不幸は「金銭と国家とが他のすべての結びつきに取って代ってしまった」ことだ。「エゴイズムや自負に限界を設けなければならないということが、多かれ少なかれ認められている。ところが、国民的エゴイズムや国民的自負ということになると、無制限のわがままが許されているばかりでなく、可能なかぎり最高度のわがままがなにか義務のごときものによって課せられているのである」。さらに「教会ほど国家の全体主義的野望に奉仕したものはない」と、その過誤を指摘する。
「義務は無限である。だが対象は無限ではない」このことを知らなければならない。対象となるものと善との関係を見極めること。そのように見れば「祖国に関するかぎり、根づき、生命圏の観念だけで十分である」。
言い換えれば、国家や民族等の諸集団に対する義務は永遠ではなく、人間に対する義務に優先しない。近代の戦争が国家や民族等、集団への帰属意識(それゆえに人がもつ義務の感情)によって引き起こされたことを考えるとき、ヴェイユのこの思想は絶対平和の哲学の根幹をなすものといえるだろう。
ヴェイユの「祖国に対する憐み(コンパシオン)」は、国家や国家の偉大さに向ける感情ではない、真逆に「弱さへの想い」である。ヴェイユにとって、敗戦と祖国の喪失という現実のなかで、自らの魂が「不幸の極限」の民衆とともにあることほど重要なことはなかった。「民衆のみが、おそらくは、いっさいの認識のなかでもっとも重要なものであるべき、不幸の現実に対する認識を独占しているからである」。民衆への謙虚さのないところに善はない。無限の義務とは、十字架に磔けられたキリストのもとにあるように、不幸に磔けられた民衆とともにあること。その一点においてのみ政治も宗教も別ではない。偽りの偉大さを捨て最も弱いものと同苦するとき、最も美しいものが何か、真に守るべきもの、果たすべき義務を知ることができる。正しく善を識別させるものは憐れみである。
第三部は次のように書き出される。「民衆に霊感を吹き込むための方法をめぐる問題はきわめて新しい問題である」。知性の集団的行使はありえない。個において魂を善に(偽りの善ではなく実在の善に)根づかせることが必要だ。それを妨げるものは何か。「われわれは四つの障害によって、価値あるとされる文明の形式に達せられずにいる。われわれにみられる、偉大さにかんする誤った観念、正義の感情の堕落、金銭の偶像崇拝、宗教的霊感の欠如がそれである」。ヴェイユが語るのは、ひとりの人間の魂が絶対善に根づくこと──それは無限の希望であり喜びである──と、政府のなすべき絶対平和の実現が軌を一にするようなヴィジョン、そのための思索と実践の普遍的かつ具体的な道筋である。
『現代詩手帖特集版シモーヌ・ヴェイユ』2011年掲載(2009年執筆)
『シモーヌ・ヴェーユ著作集』春秋社 5巻「根をもつこと」

☆シモーヌ・ヴェイユとキリスト教(教会と全体主義)

ユダヤ人であったシモーヌ・ヴェイユがカトリックを信じたのは、文字通り、神の愛が普遍的であることを信じたからである。喜びのなかにも苦しみのなかにも、さらにキリスト教徒のなかにも異教徒のなかにも神の愛があるとヴェイユは信じた。
キリスト教が普遍的(カトリック)であると信じたヴェイユにとって、それが事実としてはそうでないことは重要な問題だった。「キリスト教は建前として普遍的なのであって、事実として普遍的なのではありません」「教会はすべてを受け入れる器であるのにわたくしは教会に入れないすべてのものの方にとどまっております。わたくし自身の知性がその中に数えられるだけに、なおさらそういうものの方にとどまっております」。
友人であったペラン神父への手紙を中心に、彼女は神への愛を語ると同時に、教会がドグマの強制、知性への圧制となっていることを批判する。
「教会と国家は、是認しない行為を知性がすすめる場合にはおのおの固有のやり方で知性を罰するはずです。(略)しかしこのような理論的な思弁がどんなものであっても、教会や国家はそれらの思弁を窒息させようとしたり、そういう思弁をする人々に物質的精神的な危害を加えたりする権利はありません」。
「愛と知性に教会の言葉を規範にすることを強制しようとする場合には、教会は権力を乱用しています。この権力の乱用は神から出るものではありません。これはすべての集団が例外なく権力の乱用に向う自然の傾向から来るものです」。
「ある聖人たちは十字軍や宗教裁判を是認しました。わたくしは彼らが間違っていたと考えないわけにはゆきません。わたくしは良心の光を拒むことはできません。(略)彼らがその点では何か大変強力なものによって盲目にされていたことを、みとめなければなりません」。
ルカの福音書のなかの、この世の王国について、悪魔がキリストに言った誘惑の言葉が引用されている。「わたしはそこに結び付いているすべての権力と栄光をあなたに与えよう」。教会は、この悪魔の贈り物を受け取った。それが十字軍であり、宗教裁判であった。
教会は変わらなければならない、とヴェイユが言うとき、それはひとつの宗教、ひとつの宗派の浄化、などというのを意味するのではなかった。全体主義におおわれた20世紀半ばの世界の転換をも賭けて、言うのである。現代世界の政治の闇に、教会は歴史的に深い責任を持つと、ヴェイユは考えていた。
「全体主義であったローマ帝国の滅亡後に、ヨーロッパではじめて、13世紀に、アルビジョワ派の争いの後で全体主義の下図をつくったのは教会なのです。この木は多くの実を結びました」。
「自己」に向けても、ヴェイユは同じ刃をつきつける。「宗教は、なぐさみのみなもとであるかぎり、ほんとうの信仰の妨げになる」と言う。
そして、信仰とは、自己の救済を求めることではなく<善>を求めることでなければならないというのである。なぜなら、盲目的な救いへの欲求が権力への欲望にすりかわったところに、歴史の悲劇はあるのだから。悪魔の贈り物を受け取る危険は自己の内面に常にある。
「善と悪を見分ける基準として完璧なものは、絶え間無い内心の祈りを措いてほかにない」。
ヴェイユは、世界が<善>であることを疑わなかった。「至高の<善>は実在する」と。それゆえ、その<善>の実現を妨げている「権威」は放棄されなければならなかった。
「わたくしのことを考えるのは、わたくしの仕事ではありません。わたくしの仕事は神のことを考えることでございます」とペラン神父への手紙に書いたヴェイユの、その短い生涯の終わりの数年間のノートは、神への、熾烈な問いで埋められている。
「どうすれば、キリスト教は全体主義的であることなしにすべてをひたしきることができるのか」「ともかくも新しい宗教が必要なのである。まったく別のものとなるまでに、変化したキリスト教か、それとも別なものか」──。
(1991年執筆)
引用は『シモーヌ・ヴェーユ著作集』春秋社、『超自然的認識』勁草書房より

☆同苦の感受性と、喜びの純粋性と(S・ヴェーユの『カイエ』を読む)

シモーヌ・ヴェーユの『カイエ』の邦訳(全4巻)が刊行中である。カイエとは雑記帳のこと。20世紀の思想史に至純の光芒を放つヴェーユ(1909-43)の、苦闘に満ちた思索の歩みと精神のダイナミズムが、ここには生き生きと躍動している。
まず驚くのは彼女の興味と関心の幅広さだ。科学、文学、歴史、そして東西の宗教など、まことに縦横無尽というほかない。それらを媒介にしながら、しかし彼女の思索のすべては、人類の不幸の転換の方途を人間自身の生命のなかに(信仰を通して)探る──という一点に向けられていく。
不幸と悲惨の形象として十字架のキリストがある。いまわの際に彼が発した「わが神よ、なぜ私を見捨てられるのか」との叫び、この「なぜ」こそは不幸な人間が一様に発する声だ。不幸に磔にされた存在としてみるとき、神の子もすべての人間も等しく同じ、とヴェーユはみる。
しかしながら、人間は不幸を嫌う。悲惨なものは、醜悪ゆえに目をそらす。その結果、「悲惨な人々の憎しみは、自分と同類の人々のほうへと向か」い、「自己の外に苦しみをまき散らそうとする衝動」のままに、もっぱら悪と不幸の伝播に荷担する。現在の民族紛争などの問題も、まさに”悲惨なものはその同類を憎む”という構図である。
いかにして、この構図を打ち破るか。不幸への嫌悪、あらゆる嫌悪を、ほかならぬ自己へと向けることによって、とヴェーユはいう。なぜなら「悪の源は同一のものではないにしても、自分の内なる悪の源泉に類似している」のだから。苦痛と恐怖を他の何ものにも転嫁せず、あるがままに自己の内面に受け入れること……。これは至難だ。彼女は、悪と不幸の根源を執拗に問い続ける。みずから望んで痛み、引き裂かれようとする。
不幸をあるがままに、ただ存在するという理由において、人類の普遍的な悲惨の現れとして愛すること、この超越的な愛こそが信仰である、と彼女はいう。十字架とは「天秤」(=正義)の形象でもあるが、それは悲惨な者の方に魂を傾けることによって正義なのだ。ヴェーユの思想と生涯にみる、不幸への傾斜の激しさは、善への希求のひたむきさにほかならない。
人類の悲惨を自己の内的経験として味わうことは、苦痛を伴わずにおかない。しかし逆に、みずからの苦痛を通して人類の普遍的な悲惨を知ることは、自己の生を他者の生とつなげ、世界のなかに解き放つことでもある。生をそのまま、深い喜びのうちによみがえらせることでもあるのだ。そのためには魂は虚飾を脱ぎ捨てねばならない。
「純粋な同苦・共苦によって、いよいよ純粋なよろこびを享受できる」「他人の不幸を、自分もそれに苦しみながら受け入れること」。
かつてヴェーユの最後の論文「根をもつこと」(第二次大戦中、ロンドンの亡命政府のもとで作成した、解放後のフランスの再編成計画)を読んだときの、不思議な感動を想い起こす。読み手の心の底に沸き上がるときめき、希望のたしかな手触り……。ひとりの女性がその生涯を賭して、不幸の意味を問い、その”価値”を発見したとき、彼女は国家と人類が宿命の軛(くびき)から脱出する方途をおのずと見いだした、ということのように思う。
十字架のキリストのように、不幸に磔けられたまま死ぬことを願い、しかもどんな慰めも求めようとしなかったヴェーユの、痛ましい限りの生、悲惨と不幸のただなかに魂をさらしつづけた生は、しかし、自分が喜びを感じようと苦しみを感じようと、世界は絶対に善であるという確信を手放さなかったその”宗教的なるもの”の脈動する心によって、ひたすらに純粋な喜びの光を放っているように感じられる。
(1993年執筆)
『カイエ』全4巻 みすず書房

☆『ヴェーユの哲学講義』

本書は、1933年から34年にかけて、シモーヌ・ヴェーユ(1909~43)がロアンヌ女子高等中学(リセ)の最高学年哲学級でおこなった講義の記録である。
「心理学」「社会学」「精神の発見」「倫理学」を通して、意識、感情、身体、国家など、人間の諸条件を検証した講義内容は、実に独創的で自由だ。
国家や社会、また個人のあらゆる活動の中から、どのように注意深く「悪」を取り除くか、どうすれば「生き生きした調和」を見いだせるか、という姿勢に貫かれた講義は、哲学は単なる知識ではなく、生きる姿勢そのものであり、人格の発展そのものであることを訴えてくる。「人間ひとりひとりの存在の目的は、この地上に最大限の人間性を存在させることでしょう」
講義録には、その後のヴェーユの思想と行動を支える思索が随所に見いだされ、ヴェーユの生涯と思想の縮図のようでもある。そこには「絶対善」へのひたすらな希求が鮮烈に脈打っている。「真実は〈善〉から生じ、〈善〉はその価値を真実に与えます」
当時の生徒のひとりによって記録された本書は、ヴェーユの講義が、どれほど深く生徒の内面をゆさぶるものであったか、魂に語りかける力を持っていたかを物語るものでもあろう。講義を通して精神の成長を促される喜びは、かけがえのないものだったに違いない。
(1997年執筆)
『ヴェーユの哲学講義』ちくま学芸文庫

☆『シモーヌ・ヴェイユの哲学』

シモーヌ・ヴェイユの思想には哲学的、宗教的、科学的、社会的、政治的諸要素が混在するが、その中心を流れるのは宗教的な情熱といってよい。本書はヴェイユの宗教哲学を体系的に解釈し、その基本構造を把握しようとする試みである。
ヴェイユの宗教哲学においてきわめて重要なのが「脱創造」の観念だ。この宇宙は「善」であるという確信。脱創造とは実在する「善」をあらわすために、それを妨げている自我を脱ぎ捨てることである。以下、欲望や虚無、苦悩や不幸などの人間の諸様相が、「脱創造」との関連において体系づけられていく。
「あらゆる欲望は、善と幸福への欲望である」(プラトン)が、ヴェイユの思索はいかにして欲望を浄化し、偽りの善から欲望を引き剥がすかに向けられる。
苦悩も不幸も、魂の一点が「絶対善」をとどめる限りにおいては、魂から罪と虚偽を剥ぎ取るために有用である。そうでなければ人格の崩壊をもたらす。「善を意志することにおいて善い」(カント)のである。
ヴェイユの「脱創造」の観念は、仏教の「無作(むさ)」という言葉と響きあうように思う。それは、ありのままで「善」であるという至高の(至難の)存在のありようへ向けての全身全霊をあげての思索であり実践である。
「絶対善」へのひたすらな希求に貫かれたヴェイユの宗教哲学は「キリスト教プラトニズムの偉大さを証明する」(著者)とともに、一宗教の枠を越えて、異なる宗教間の対話を可能にするような普遍性の場に立っているように思われる。
(2006年執筆)
『シモーヌ・ヴェイユの哲学』(ミクロス・ヴェトー著、今村純子訳)
慶応義塾大学出版会

☆『アンドレとシモーヌ  ヴェイユ家の物語』

本書は、数学者アンドレ・ヴェイユを父に、哲学者シモーヌ・ヴェイユを叔母にもつ著者、シルヴィが見つめたヴェイユ家の物語である。
家族は「シモーヌとともに生きていた」。戦後、祖父母は死んだ娘のノートを書き写して過ごした。のちには、シモーヌが残したものをめぐって、祖父母と父母の間で諍いが起こる。「聖女」シモーヌの、若く異様な死が家族にもたらした栄光と苦しみ。それは著者の子ども時代に影を落とした。
叔母シモーヌに容貌の似た著者は、思春期を叔母への親しみと反感の間で揺れ動いた。そしてむろんシモーヌとは違う生き方をする。
著者は、シモーヌが顧みなかったユダヤの伝統や思い出に心を寄せ、家系図をたどって先祖の物語を追う。そこに見出す普遍的な慈善の魂と反ユダヤ主義の残酷。アンドレの言葉が印象的だ。「おまえは、私の妹が、結局はすることになったであろうことをしているのだよ。何故かって、シモーヌは、おおむね、誠実だったからね」
著者は小説家。だから想像する。兵役を拒否したアンドレを牢獄に尋ねる家族のひととき。亡命先のニューヨークで幼い自分のためにレインコートを探す祖父母の姿。ばらばらになった家族の物語を、追憶のなか、想像力によって深く豊かに紡ぎなおす。人生を肯定する、しなやかな言葉の力に胸打たれる。
(2011年執筆)
『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』(シルヴィ・ヴェイユ著 稲葉延子訳)
春秋社

シモーヌ・ヴェイユの生涯と思想

☆シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909年2月3日 パリ – 1943年8月24日 ロンドン)
父はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄。
病弱。神経障害。頭痛。

☆アランとの出会い……高校の時
自分の言葉によって書き尽くす。厳密な考え方で。
アランを通して、ギリシャ哲学へ傾倒。
大学の卒論は、デカルトにおける科学と知覚。

☆リセ(女子中高等学校)へ哲学教師として赴任
失業者問題、炭坑夫たちの組合運動への関わり(革命的サンジカリズム(共同主義))
『我々はプロレタリア革命に向かっているのだろうか』
抑圧の問題……ひとつの抑圧が排除されるとまた別の抑圧が出てくる
当時のフランスのソビエト幻想への疑問。ソ連に第二の抑圧(官僚主義)を見ている。
『抑圧と自由』1933
人間関係をつくる基本的なものとして抑圧がある。プロリタリア革命によっても抑圧はなくならない。クラス(階級)よりもフォルス(力)が基本。
一度フォルスに憑かれた人間はますます大きなフォルスを求めてひきずられていく。

☆リセ教師を休職 パリ郊外で下宿生活をしながら電気会社で未熟練女工として働く
『工場日記』 文字の乱れ、疲労の激しさ、頭痛、生来の不器用さ
工場は実人生だ。屈辱感を感じながらもそこにいなければいけない
必然性の抑圧のもとに服して。人間の冷酷のドキュメント。
そのなかでも笑ってくれる人がいる──微笑と愛への考察の具体的手がかり
この世に生きる人間は奴隷ではないか。
「不幸との接触は私の青春を殺してしまった」
ヴェイユの工場体験  体験──社会思想──哲学へ

☆ヴェイユと宗教
ポルトガル旅行 1935  キリスト教(カトリック)とのはじめての内的接触。
キリスト教は奴隷の宗教である。(奴隷……階級としての奴隷のみならず、
必然的運命のもとにしいたげられている人間。地上に生きている人間すべて)
1937 イタリアのアッシジ、聖フランチェスコ教会で、二度目の内的接触。
「私より強い何ものかが生まれてはじめて私をひざまづかせた」
フランチェスコは奴隷の姿(無一物)になって死んでいった。
1938 ソレム(グレゴリオ聖歌の町で)三度目の内的接触。
不幸を通して神の愛を愛する。受難。キリストは奴隷になって地上に来た。

☆スペイン戦争(1936-39)
1936 リセの教師に復職していたが、いてもたってもいられなくて、スペインに向かう。
バルセロナで従軍。炊事の怪我で入院。
ベルナノスへの手紙(ベルナノスは政治的には右翼であり立場を異にするが、戦争の本質を見抜いた者として共鳴する)「私はこの戦争を地主権力に対して起こった飢えたものたちの戦争だと思っていたが、実はそれぞれの国家の代理戦争だとわかった」「殺人を自慢のように話す。ファシストというレッテルを貼る。これは自分たちと別の人間だ。だから殺してかまわない」「すべて群れ集まるものは、人間を食って太っていく」

☆1940パリ陥落とともに南フランスへ逃れる (ユダヤ人であったので)
ビシー……ビシー政府の保身へのいらだち。
マルセイユに2年滞在……多くの作品、多くの出会い

☆ヴェイユと詩
戯曲『救われたヴェネチア』を完成させようと、後のニューヨーク、ロンドンまで持ち歩いた。
勝利者は自分の意味を生きる人間だ。敗北者は他人の意味を生きる人間だ。
「人間にできるのは存在する美しさを守ることだけです」

☆ヴェイユとギリシャ思想
『「イリアス」をめぐる論考』1938
人間たちを操りちぢみあがらせるフォルス(力)
イリアスはフォルスの物語だ。人間はフォルスから抜けられない。魂、精神の力によってしか。
フォルス、暴力をいかに拒否するか、フォルスの拒否はいかにして可能か──生涯のテーマ
フォルスは人間を死体にする。それが「イリアス」が私たちに与える光景である。
戦争の現実。人間存在が破壊された姿。そのなかで人間的なものの発露に出会うとき感動する。
他人のために生命を開く、そのような道もあるのではないか。
ギリシャ精神──運命は公正だ。やさしさ(運命の過酷さを公正に見つめる)から生じる苦悩。
すべての人間が過酷な運命に服しているという現実を見る目がギリシャ精神にはある。
☆南フランス文明への考察
南フランス文明の霊感の根源をギリシャにさぐる。
それが、ローマ的汚れによって、さらに十字軍で破壊された。
現在のヨーロッパの闇のなか、フランスの闇のなかで、
中世以前の文明圏に、人間の文明のあるべき姿を探ろうとした。

☆マルセイユ時代、アメリカ時代の思索 →『カイエ』
「神を待ち望む」ペナン神父への手紙
洗礼の拒否…集団の外にいるものは敵だという考えには同意できない。
キリスト教徒であるなしに関わらず、救いはすべての人に与えられている。
人間にとってはただ待つこと。世界中いたるところで、人間は神を待ち望む。
→神への問い
東洋思想への関心、抵抗雑誌の配布活動なども。
アメリカでは、看護婦の試験を受けた……従軍してフランスにもどる考え

☆ジョー・ブスケ(1879-1950)シュールレアリズム詩人との出会い(カルカッソンヌの一夜)
戦争で下半身不随。麻薬中毒。外との関わりはなくなった──精神だけの存在。
「傷」を自分のものとして受け入れる。
世界のはじめからあった傷ではないか。世界のすべては自分と同じように傷ついている。

ブスケへの、ヴェイユの手紙
「私を通して他の人々のために
あなたを通してあなたの兄弟たち(同じく傷ついた人たち)のために
あなたは誰よりも世界の現実が自分にとって実在となる特権を持っています
多くの人にとって悪夢であるにすぎず、戦争という絵の背景であるにすぎないことを、
多くの人をとらえてきた不幸を、あなたはパンセによって生き直そうとした
けれど完全には決意していないでしょう
あとはただ卵の殻を突き破ればいいのです
ひなどりは愛です神です
あなたは自分の肉体に戦争を持っている
多くの人々は忘却によって過去に葬ってしまった
不幸について考えるためには不幸を自分のなかに深く深く持たなければいけない
思考がそれを見つめる力を、ひたすら待つこと、忍耐して待つこと
人間は有限性の痛みを生きる存在です
あなたが卵の殻を割って外に出たときにあなたの体のなかの弾丸に許しが与えられるのです。
その弾丸を与えた世界に許しが与えられるでしょう」

☆ロンドン時代
『根をもつこと──人間の義務の宣言のプレリュード』
ロンドンのフランス亡命政府への報告書
20世紀フランスが生んだ最高の思想書(カミュ)
精神が汚されていない若者に読んでほしい(TSエリオット)
1.人間の様々な必要
自由とともに秩序、名誉とともに罰、私有財産とともに公有財産
2.根を取り去られること
人間が生きていくためには根をもつことが必要だ。
しかし、歴史の上では根こぎがある。
労働者の根こぎ、農民の根こぎ、根こぎされた国
3.根をもつこと
いかにして、人も国家も、善に根づかせるか。何よりもまず精神の気高さを。

『ロンドンノート・超自然的認識』
救いとは死への同意だ。
キリストのように磔けられて、「わが神わが神どうして私を見捨てられたのか」
と叫んだような死の状態であればいい。
不幸の存在するところ、どこにもキリストはいる。
キリストはすべてひとりの人間の最後の状態
自分を無にすることで神に近づく
創られた自分を脱ぎ捨てること……脱創造
不在の神に祈るとは何という不条理だろう。
神を待ち望む

☆死 粟粒性結核による心臓衰弱および飢餓
患者は精神錯乱をきたし食物を拒否し自ら死に追い込んだ。
最後まで、知性は明晰だった、とも。

HPへもどるhttp://www.fureai-ch.ne.jp/kazu3/kazumi/

S・ヴェイユに関する覚書 への4件のフィードバック

  1. 青野 豊一 より:

     私も、「根をもつこと」を読んでいます。読んでは、それをパソコンの中に打ち込んでいます。このようなまとめを通して、他の人の著作の読み返しガできています。
     また、フランスのサンヴィカリズムについてその認識を新たにしています。

  2. kazuminogi より:

    私も、むかし、ワープロ(!)のなかにせっせと打ち込みました。それを綴じたものを折に触れて読み返してきましたが、そうですね、ヴェイユとも、他の人の著作とも、またそれを最初に読んだころの自分自身とも、いろんなふうに対話してこれたかなと思います。

  3. 池山弘徳 より:

    素晴らしい論考です。再度 天秤「わたしたちの空」を読んでみます。

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